私も実は元生徒さんのイスラエル人一家を知っており...
昨日CWで投稿した件ともある意味関わってくるんだけど、こどもの安全や人権について優先すべきことが本当におかしいと思う。うたのおにいさん?の件は「ネタなのに攻撃するのはおかしい、表現の自由に対する迫害だ」と主張する人がいる一方で、子どもどうし遊ぶのも18際未満の家族にあずけるのもダメっていうの、ほんとわかんない。
うーん。私は気が強いから反論するんじゃないのよなあ。反論せず現状を黙って受け入れて平常心でいられるほど気が強くないのよなあ。
自分の分野で「近年」なんて訳語を見たら17世紀以降か19世紀以降か、それとも20世紀後半あたりからか、あるいはここ数年数十年を指してるかくらいなんだけど、遺伝子研究者にとっては6億年なの草
nostr:npub1p9qaczh4rerdm4en56dsyy3ln4apv2jr9aqlwxh97d2hx6zsh89qpd2jaz 何回かやって効果が...
@968c60bd @0941dc0a そうなんですよね、しかもうっかりするとそこで「何もわかっちゃないんだよなあいつら」みたいな罵倒めいたことが始まっちゃったりするし(しかもきっかけはちょっとした誤字脱字の類やどうでもいい揚げ足取りだったりする)、そういうの見るとほんと嫌になってくる…
「検索することで自分の視野を広げることができる」という意見を見て、なるほどそう思う方々もいらっしゃるのか…とある意味新鮮だったんだけど、やはり自分の経験上の実感としては少なくともSNSでは逆の印象なんだよなあ…ということを昨夜からちょっと考えていた。 今までMastodonに検索がなかったことで「検索で同じ趣味の人を見つけたいのにそれができないからつまらない」と言って去っていく人をたくさん見かけた気がするし、じゃあ鳥サイトのころ検索はどう使われていたのかというと(現状は知らないので敢えてこう書きました)「目についたことや関心のあるものを検索して自分の考えに合った意見が多く流れていることに安心をする」ケースはよく見られる事象だったと思うし、「合わないものに何かしら言わないと気が済まない」所謂ReplyGuyの訪問を受けたことも少なくない。自分にとっての検索でいえば、哲学系のQuotesをランダムに発信しているアカウントなどをTopicsとしてフォローしたりはしていたけれど(まったく興味のない美容だ芸能だなんだが流れてくるよりましだから)検索してフォローに至るケースは政治や国会、選挙の情報、支持政党関係だったんだよなあ… そこら辺の印象や実感からいうと、すくなくともSNS内検索ってのは自分には「狭める行為」に思えるんだよな。やはり。 そんなわけで「無から検索して何かを発見する」ってテクニカルに無理じゃないだろうかと思うし、検索で視野を広げられるという錯覚はやはり自分にとっては危険でしかないなあとあらためて思った。
いやもちろん私もだからと言って「なんかがんばってくれてはるみたいやし」みたいな支持をねらって宣伝した方がいいという気はないですよ。ただ、批評と広告という文化はトリッキーで、「でもあの○○党に政権担当能力は無理でしょ?」みたいな文言がいかに中身がなくてもひはんできちゃう。「あの」とつけることで何か特定のニュアンスが実態のないままそれぞれ勝手な受け取り方でシェアされ、問題点が語られなければ語られないほど「現政権はどうか、何をして来たか」にフォーカスされることはないままイメージ付けだけを押し通せてしまうのだから。
クリシェの領域だなあというものを引用するのも気が引けるけど敢えて引用するなら「シーザーを理解するためにシーザーである必要はない」みたいなやつですかね…わからないからゆだねたいのであって、わかれー!っていう圧があるとちょっときついというか、もちろんそれは市民として有権者として無責任なんだろうし処理能力低くて恐縮だしほんとに申し訳ないんだけど、私は信頼できる専門家にお任せしたいのですよね…で、どんな人なら任せられると思えるかっていうと、他人の領域にずかずか入らないこと、媚びないこと退かないこと(あれどっかで聞いたような…)、理論だてて考えかつ思考が柔軟であること。こういう点がちゃんと見える人は信頼する。
わかりみ。政策を事細かにして「こんなに素晴らしいのになぜ理解しないのだ」っていうスタンスは無理と言うか...うまく言えないけど、それで支持を広げるのは理想かもしれないけど多分無理だよなっていうのはずっと思ってる。
本気でどうもよくわからなくなることがしばしばある。たとえば私がある話題で異なる視点からの問題点や見解を表明すると、「怒らせた」「不愉快にさせてしまった」として謝罪する方がいらっしゃること。こちらが一対一の問題として謝罪を求める形で意見表明をしているわけでもないケースだと、確かに何のコメント(さらなる反論や弁明、謝罪など)もないのと違ってある種のコミュニケーションではあるし、形式的に気遣ってくださっただけであれ周囲の雰囲気に配慮した結果であれその意図としてはわかることはわかるんだけれど、そもそもの問題点が私のお気持ち云々ではない場合にも私に向けて謝罪されてしまうと、これは問題点を話し合うことを拒絶し異なる視点を排斥するという上級テクニックなのではないかと思えてくる。
面白いなあと思うのが、他の人がSNSとかで他愛もない話してると「くだらん人ばかりいるな」とか思い、自分がそこでするくだらない話は息抜きだから有意義だったり「自分が話題にするときのこのワードは下世話な意味ではない」と思ってる人がいるってこと
あと、ギリシャは知り合いもいないしギリシャ語もさっぱりだったが、コンクールのあとに滞在したアテネでは3日間は毎日本当によくしゃべった。そこらの人とすれ違いざまに、信号待ちの間に、目につくものについて何でもしゃべる。で、そのままご飯を食べてる仲間に加わったりして、そこにアイヌの文化を研究の題材に選んだことがあるっていう文化人類学の研究者さんがいて色々話してたり。昼御飯を食べに行ったサンドイッチのスタンドでもそこの店主と立ち話。どこでもとにかくしゃべりだす。そりゃあ対話からの哲学者が育つなと思った。今の町の雰囲気がどう変わっているかわからないけど。
BT、欧州の文化の中心といわれる都市に生まれ育ち暮らすような人も批評と広告の餌食にはなってると思う(名の通ったものをよく聞く批評定型で語ってしまう)。ただ、例えばイタリアでクイズ番組とか見てると「なぜこう答えるか」が当たり前のように語られる。かなり長々と喋ることもあるし、たぶんこれではないと思ったが何もアイディアが出ないんだ、なんて時もあるが、とにかく「何を思いどう答えるか」が語られる。「答えを知ってるかどうか」ではないのだ。司会者はそれを引き出す役。早押しや回答の多さを競う系のクイズでもあとから振り返り的にこれがあったりする。
この辺考えると日本は「知ってるかどうか」至上主義みたいなところがあるのは否めないし、その辺りの感覚が本職すら含めて分野内の奇妙なジャーゴン多用というか「通ならではの証を常に提示して威嚇する」風潮を生むんだなってのは思ってる(まあジャーゴンってそもそも外語だしどこでも散見する傾向ではあるし、なんかちょっと違うんだよなあと感じるのは日本の事情に接する機会が単純に多いせいかもしれない)
趣味で芸術関連やる方って専門職と横並びあるいは上から話したがるのにちゃんと自分の専門職の主張もするし、専門職の芸術家は趣味の方の話を謙虚に傾聴するのを求められるし、ほんとなんかずるいんだよなあとずっと思っている。
TLで育児休暇への褒賞金?が出る件ですかね?の話題出てて、うんそういうとこな、とつくづく思う。性差の問題はもちろんだけれど、自営か被雇用か正社員か派遣かとかもそうだけど、私みたいな働き方は休めば即減収(こっちの都合はもちろんだが相手の都合での急なキャンセルに対してかなり細かく取り決めをつくっておいても大抵は請求できない)、いつ全部失うかわからない、一旦減り出すとなかなか繋げられない。そうではない働き方はもちろん選べるはずと思われているし、実際選択肢もあるけど、じゃあこの国の憲法ってなんなんですかね...って思いながら、制度に守られる人と私は一体何が違うんだろうという疑問と共に生きている。
以前、普通に実家暮らしをして家族中もよさそうな大学生がわたしのことを「一人暮らし憧れるんですよーわたしも一人暮らしはしてみたいんですけど大変そう!」というので「一人暮らしするとなったら心配なことは何ですか?」と聞いたら「自炊」と。ああやっぱりそういうことですよねと思った。まあ大変じゃないとはいわないけど、単身世帯の世帯主であるってほんと全然そういうことじゃないというか、自炊や掃除全部自分でやるのが大変って思う類の一人暮らしとわたしのそれは全然違うので。私は実家時代に家族の分の料理洗濯掃除をかなり担当していたから家を出て自分の分だけになってそこはほんとに楽になったわけで。
単身世帯問題、例えばコロナワクチンで「緊急時連絡先」を記入させられるストレスとかわかりますかね。毎度これで号泣するくらいしんどいんだけど。
これね、自治体や接種方法によって違うと思うんですけれど、一度現地で書かされたときがあって、記入必須か確認したら「ご家族とか誰でもいいんですよー」って言われて。その瞬間号泣してしまった。かなり血圧が動いたと思うので問診の担当医に一応相談したら「じゃあワクチン受けるのやめますか」っていわれた。 その後クーポン送られてくるときに当日の体温とか書いて持っていく用紙に記入欄ができた。
正直「おひとりさま」という表現関連で意見した際に立憲支持者さんにブロックされたのは結構ダメージでかい
私と同様に単身世帯で生きるという選択をした方ならもう少し具体的に意見交換したかったし、そうでない立場の方なら、私(たち)をおひとりさまと呼ぶことの意義をもっと説明してほしかった
立憲の政策集でみつけたリンク「孤独・孤立」にいってみたら「望まない孤独・孤立」という文言から始まっていて、ほんとよくわからない…様々な状況から最善の選択として一人で生きてる場合はどうなるのだろう。どういう経緯で孤独や孤立という状況にあるかを取りざたするなら「DVを逃れて家を出る」みたいな人への支援と整合性つかなくなりませんか?って思うんだけど、それは「望まない孤立」という分類にされてしまうのだろうか。孤独や孤立という語の定義の問題ではあるかもしれないけれど、私にはものすごくこの「望まない」とわざわざついていることに対する違和感がある。
なぜ「博物学」という分野があるのか。網羅するということが幻想に過ぎないということに抗うためだ。網羅することをなめてかかると視野の狭さを露呈することになる。
ある一つの行動をとるときに思考が細かく往復しない人間ってのはつくづく省エネ仕様なんだよな。ふと笑っている自分に気づく。いま私は笑っているな。なぜだろう。これは笑うという反応がふさわしいだろうか。この反応を見て相手は何を感じるか。こういう思考の細かい往復がないまま「深く考えずに笑ってるもんだ」。いや、私はそうじゃないので。一緒にしないでほしい。
無料部分しか読めないんですが、これほんとひどい。以前の記事の見出しだけど「笑い取るためだった」。これ。あのね。以前も別件で投稿してきたけど、相手が笑ってやり過ごすくらいしかできない状況に追い込む(そして周りが雰囲気で笑う)ような行動しかとれない人が「面白い話題を提供できている」という勘違いをすることに気づいたから、私は面白くないときには笑わなくなった。ちゃんと制御して、そういうすり替えをすることは絶対にやめようと思って生きている。 https://www.asahi.com/articles/ASR9D6QKYR9DOXIE01D.html
以前こういう意見を言ったら「でも人ってそんな考えて笑うわけじゃない、反射的なリアクションというか、深い意味はないで笑っているもんだろう」とかいうご意見をいただいたことがあるんだけど、私は笑いを表現として制御して生きているし、そのために脳のリソース割けることに誇りを持ってる。
ところで対立煽りの人ってのは反対意見で煽ってきたくせにこちらが部分的に表現を変えるなどしようもんなら「もう意見を変えるのかよw」みたいな返しをしてきたりするので相手の考え方に疑問を呈し意見交換しようなんていう意思はたぶん持っていないのではないか(婉曲)
BT、わかる。私はれいわの支持はしないけれど、「家庭・子育て」が前面に来ない党であることだけは思う。それだけで何度となくうっかり目が向きそうになる。立憲は、支持者の方々のスタンスも含め、「打ち出しているつもりなんだろうけれど」個人を支える政策というイメージがない。当事者の自分から見て、打ち出しているつもりだろうなというところがむしろきつい。
ふと気づいたんだけど、「仲間内でわいわい喋る」ような場で煽る以外にたいしたこと言わない人って、煽られた方はめんどくさいながら気を遣ってまわりの笑いを誘うような返しをしてあげてしまうから、もしかして「煽る=みんなが盛り上がる楽しい話題をふる役割やってる」つもりで増長するのかもしれないな
ずっといってきてるけど私は「若いのにしっかりしてる」ってのがほんとに苦手というか、「しっかり」は年と共に標準装備される仕組みだったりしないのでいったい何を言ってるんだとしか思わないんだが、年長者が経験値から(似たような経緯の渦中にあるとおぼしき)年少者相手に理解しアドヴァイスしたくなる状況はあり得ると思ってはいる。ただこれもたまたま生きている期間の長さからヒットする該当項目が多いだけなので、敬語的スタンスを外れる理由にはあたらないとも思っている。年長者が「若い頃こうだった」として現在はその時点からみて変化した話を(自慢あるいは説教的な何かとして)聞かせてくるときに「若いという時点の括り」が雑なのも自分はいちいち気になって「それあなた比ですよね(なんかどこかで聞いたような語調でイヤだが)」と脳内でひとりごちたりはしている。
マスクはもう要らないキャンペーン以降たぶん初めて電車乗ったがマスク着用率2~3割くらいか...:;(∩´﹏`∩);:
共同親権関連の記事などを見るたび、賛成でも反対でも見解として「子どもの気持ち云々」ってあるけど、当事者育ちである自分、どちらかの親元で暮らすと言う選択肢だった自分には、自分の意思というより親それぞれの立ち位置と振る舞いをどう読むかだった。子どもが「自分の意思」をどう持ちどう表現するか。それは本当の意味で子ども自身の意思なのか。子どもは純粋で素直だなんて考えないでほしい。健康保険証ひとつとっても一方の親が住民票はそのままで別居とかだと今どっちが持ってるとか、分離させる手続きとか、色々いざこざで大変だった。マイナンバーカードの問題はさておき保険証等の個人発行に賛成なのはそういう問題で医療機関になかなかつれていってもらえない状況だったからだし。とにかく社会制度として「(家庭や家族としての)世帯」ではなく個人として支える仕組みが欲しいし、私のような状況が「特殊なこと」として扱われない社会であってほしい。制度的なこととそれに付随して起きそうな問題は山のようにあるだろうというのもわかっているが。
この類いはほんとどこでも起きているわけだが、こういう主張のない(この件で現時点では特にそういう報道はない)ものと「美術館アタック」などと呼ばれる抗議行動を一緒にしないでほしいと常々思う。 https://www.instagram.com/p/Cwx0e4wNPZ0/?igshid=MzRlODBiNWFlZA==
言葉は難しい。 言葉そのものの原義を辿って得られる意味、用語として新たに加えられたあるいは加わってしまったニュアンス、その他、上げたらきりがないが、歴史や文化や様々な要因が作用するので、元の意味が消え去りはしないが直喩や暗喩として表現されるものも含めれば、「意味」といえるものは果てしなく多様であるかもしれない。言葉一つを通して人がイメージする事象は一定ではない。だからこそ吟味しなければならないが、その根本に柔軟性がないとイデオロギーの押し付け合いになりかねないと思う。
Notes by Zongora :Flag_Ace: | export