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 J.デリダ『絵葉書』について

 デリダのテクストはただでさえ、「難解」で知られています。
 
 デリダは哲学的テクストやただでさえ、多義的な意味をもつ文学的テクストを「読む」という形で、高度な「言葉遊び」=「だじゃれ」に凝りに凝るので、日本語訳がほぼ「正確」であったとしても、原文のパフォーマンスは失われることが多い。

 フランス語圏の文学的芸術的テクストは元来、意味だけではなく、音声的・視覚的「言葉遊び」を好む傾向があり、これは英・独・伊・西など他の欧州語圏と比較しても独自の伝統があります。

 しかし、そのフランス語文化圏の圧倒的多数の人々にとってもデリダは「難解」過ぎる。

 その中でも「絵葉書」はさらに難解だとされます。

 これ一つには当時のゴダールやリヴェットの映画を観てもわかるように、アヴァンギャルド的な形式的実験の時代であったこと。

 今一つの固有の理由は「絵葉書」が当時不倫関係にあったS.アガンスキーへの「手紙」をベースにしていることです。

 当然内容は当事者だけに分かる、ほのめかし、メタファーに溢れています。
 また「宛先」が「誰か」は「わかってはならない」。

 多くの女性ファンが「君 tu」を「自分宛」と誤解するように書かれているのは、デリダ、なかなかに商売上手でもある。