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  デリダとブルデューは、共に首都パリの「ハビトゥス」に馴染めず、その「違和感」を自らの仕事の中心に据えたとも言えます。

 デリダにとってパリの文化エリートの「フランス語」は彼にとって「他者の言語」であり続けました。ただし、デリダは「他者と」してのフランス語に同時に魅せられていく。デリダの本領が哲学・文学の正典を「別の意味」・「別の音」で読み直し、「ずらせていく」所にあるのは、そのため、といってよい。

 一般に現代思想は美学主義的退廃へと退行し、デリダの「言葉遊び」もそのように解釈される向きはありますが、それは違います。デリダ自身は、パリの芸術的洗練の空間には、生涯違和感を感じていた。

 この点はブルデューも同様で、それ故に『ディスタンクション』、『国家貴族』などの仕事が生み出されました。

 当時ノルマルの入学試験に通るには、まずパリのルイ・ル・グラン、アンリ4世校などの名門の受験クラスに入る必要があり、デリダとブルデューはその時からの知り合い。ただし、デリダが生涯頼りにしたのは、仏における現代中国研究のパイオニアであるL.ビアンコです。ビアンコの主著『中国革命の起源』は1989年に訳されています。

 他方歴史家のP.ノラは、結局ノルマルには受からず、パリの文化業界のボスとなっていきます。