しかし、30年以上前、駒場の図書館前で、東浩紀と話していた際、所謂「フランス現代思想」を政治理論に繋ぐ際、アレント(とベンヤミン)はちょうどよい「媒介」になる、と教えてあげた際は、「なるほど!」と感心していたが、結局これもルソー噺と同じく、よく読みもせず、なにやらアレントについて「好き勝手」なことを新著で書いているらしい。
アレントの方は、ルソーと違って東浩紀の方は「覚えていない」かもしれないが、いずれにせよ、デリダやドゥルーズを「政治」に繋ぐのは東浩紀には無理。
フーコーについては東はほとんど「読んでいない」ように見えたけれども。
ただ、補足しておくと、私は東浩紀と「友人」だったことはない。大学院で高橋哲哉さんのデリダ購読のゼミで同席した折に、共通の知人に誘われて数回お付き合いしただけ。
あの頃は、東京の無教養な「オタク」だとは思ったが、現在のような邪悪な「ファシスト」になり果てるとは予想しなかった。
というよりも「邪悪さ」の片鱗は感じたけれども、世間がこんな幼稚な男を相手にするとは「予期しかった」が正確。
であるから、東浩紀が「問題外の外」であることは端からわかっていたことであって、むしろ問題は彼をプロデュースし、ここまで増長させた文化産業の構造の方にある、というべきだろう。