日本でも比較的知られている1789年10月の「ヴェルサイユ行進」事件というものがある。
パリの食料難に怒りを爆発させた女性達が国王夫妻をパリに連れ戻した事件。
国王夫妻がパリに常駐することで、軍をパリ郊外に迅速に集結させ、革命を粉砕することは難しくなった。
しかし長期に見ればパリは先ほども書いたように、反王権の都市。それに対し、国王の近衛兵は基本的にスイス傭兵。つまり王権はフランス人を信用していなかった。
1588年の「バリケードの日」でもアンリ3世の近衛兵はスイス傭兵。革命中の民衆によるチュイルリー宮襲撃で全滅した近衛兵もスイス人である。
スイスは傭兵が最も重要な出稼ぎ産業だったので、いざと言う時に忠誠心を示す「傭兵」の名声は必要だった。1527年のカール5世の「ローマ劫掠 Sacco di Roma」でも教皇側のスイス傭兵は全滅。その見返りに現在に至るまでバチカンの傭兵はスイス人である(あるいはハイジのお爺さんも)。
チュイルリー宮襲撃で殉職したた傭兵たちの追悼記念碑は「瀕死の獅子」としてスイスにある。
ところで、17世紀はヴェルサイユ王権が文化の中心地だが、18世紀にはサロンを中心としてパリに移動。啓蒙思想家たち philosophesの拠点も基本パリ(ルソー除く)。